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2003 Oギャラリーeyes 展覧会テキスト 

色彩について

三脇康生(美術批評・精神医学)

 山内の作品では写真が使われている。しかもそれはあまり一目瞭然とはしない。なにやらぼやけた、不定形の「何か」が映っているだけである。以前はボケがもっと顕著で、結局、何かを映すという写真の機能のスタイル自体を、何が映っているかという問題に取り違えないで、できるだけそのまま機能自体を、言わば数学的に取り出して、純粋な作品にしょうとする試みだったように思える。

 しかるにここ2年ぐらい、何が映っているかという問題も、ときどきは判然とする形で、しかしたいていあまり判然としないが、画面に取り入れられている。判然としないのは、戦略かそれとも逃げであろうか。もちろん、写真の機能だけを取り出すという試みは面白いが、乗りが重ければ現実への拒食症状態へ陥ることでもある。しかし、何が映っているかに配慮をし始めた時、たちまちそちらへ引きずられて写真の機能自体の数学的な取り出しに、失敗することになった場合、山内は満足できまい。

 イメージには死んでもらわねばならない。しかし残存はしてもらわねばならない。このような難問はいかように対応されるべきだろうか。山内は取り敢えず、映像をドットに至までぼやかしてしまう。それでもイメージは残るから、逆にドットをはじめから用意して、それを映像の上において映像を潰しにかかる。それでかろうじて残像が残った気がした時、我々はもう一つ重要な要素が、空間に投げ出されていることに気付くだろう。それは色彩である。

山内が抱え込んだ不自由さは色彩のためにこそあるような気がする。死んでいるのか、生きているのか分らないイメージに、人間的に右往左往させられないで済む方法とは、色彩のイメージからの解放であろう。色彩のためにこそ、ドットの誘導とドットの押し付けが行なわれたとき、我々はありふれた風景とは別種の風景を手に入れることができそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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