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2019 Oギャラリーeyes 展覧会テキスト 

絵画の貌  

平田剛志(美術批評)

何を描いたらいいのかわからない。このような問いが画家から発されるとき、描くことが職能である画家像からすれば矛盾した問いに聞こえるだろうか。

 かつて絵画で描かれた宗教や神話、物語、歴史画や風景画などは写真や映画によって再現、視覚化されるようになり、現代絵画では再現機能は必須ではなくなった。では、いま絵画では何を描くことができるのか。

 その試みは多様だが、山内裕美にとっては、何を描くかではなく、何で描くのかを選択することで絵画を探求してきた。それは版画と油絵具だ

 山内は、京都精華大学で版画分野を専攻し2003年に大学院を修了。活動初期は樹木や木漏れ日などの写真をもとに、ドットを用いた版画作品(リトグラフ)とアクリル絵画によって、見ることの曖昧さや距離感を抽象的な画面として定着させた。

 2010年からはどう描くかという方法論ではなく、「描くというよりも触るといった方がしっくりきます」 (※1) と書くように、油絵具の物質性との関わりによって生まれる抽象絵画を描き、作風を大きく変える。

 そして2014年には、「顔、中でも個人的にとりわけ違和感を覚える顔」(※2) をモチーフとした絵画に着手する。具体的にはSNS(Social Networking Service)に投稿された写真で目にする女子アナウンサーの顔を題材としている。

 だが、画面を見ればわかるように、山内の絵画は容貌を描くことが目的ではない。華やかな女子アナに対する羨望や偏見、嫌悪といった負の感情を抱きながらも、見ずにはいられない複雑な想念を油絵具という媒材を通じて描くのだ。山内の抽象絵画の背後には、本能的、生理的な感情、矛盾が潜んでいる。

 このような写真イメージをキャンバスに描写・転写する際の変容とズレ、多層的な画面構造や筆触への関心は、山内がかつて学んだリトグラフに由来するかもしれない。

 リトグラフとは、画家が描くイメージが直接、石版 (※3) に記録され、水と油の反作用を利用して紙に印刷する化学的な版画技法である。山内は、リトグラフで経験した石版の肌触り、水と油、溶剤の化学変化によって生まれるイメージの転写、支持体の石の重さと刷り上がる版画の軽さ、描画の自由さと印刷の不自由さという矛盾する性質・特徴を、油絵具を通じて行おうとしているのではないか。なぜなら、油絵具がリトグラフよりも直接的で流動的、より画家との関係性や偶然性を含んだ描画材だからだ。

 つまり、水と油が反発する性質のリトグラフに対して、山内は自身が嫌悪を抱き執着する女子アナというモチーフと油絵具とが触れ合うことにより、虚像である女子アナの顔面とは異なる新たな画像を平面に描出、転写するのだ。

 かつて三脇康生は山内の個展に際し、「山内が抱え込んだ不自由さは色彩のためにこそあるような気がする。死んでいるのか、生きているのか分らないイメージに、人間的に右往左往させられないで済む方法とは、色彩のイメージからの解放であろう」(※4) と書いたが、まさに「死んでいるのか、生きているのか分からないイメージ」とは、現代のメディアやSNSで日々映るメイクや画像加工を施された「顔」だろう。それらの「顔」から色彩を解放した山内の抽象絵画は、かつて見たことのない絵画の貌をしている。

 

1. 2010年-個展(作家ステートメント)

2. 2014年-個展(作家ステートメント)

3. 石版のほかに金属版、PS版、ウォータレスリトグラフがある。

4. 三脇康生「色彩について」

2003年-個展[テキスト]会場:Oギャラリーeyes

 

 

 

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